高齢者が安心して暮らせる賃貸住宅を考えるとき、見守りや家賃保証といった「ソフト面」に注目が集まりがちです。しかし、住まいそのものの設備や構造、すなわち「ハード面」の質も、同じくらい重要です。加齢による筋力やバランス感覚の低下を踏まえれば、わずかな段差や滑りやすい浴室は、それだけで大きな事故につながりかねません。本稿では、高齢者が暮らす賃貸住宅のハード面に絞って、現状と課題を整理します。
バリアフリー化は過半数、「手すり偏重」傾向
住宅のバリアフリー化は、着実に進んでいます。総務省の令和5年(2023年)住宅・土地統計調査によれば、手すりの設置や段差の解消など、高齢者等に配慮した設備がある住宅は全体の56.0%と、5年前を上回って過半数に達しました。ただし、内訳を見ると偏りが目立ちます。手すりの設置は44.0%と比較的高い一方、段差のない屋内は22.3%、またぎやすい高さの浴槽は20.5%にとどまり、車いすで通行できる廊下幅を備えた住宅は1割台にすぎません。手すりが全体の数字を押し上げているものの、段差解消や浴室・車いすへの対応は、依然として遅れているのが実情です。実際、2か所以上の手すりや段差のない屋内を備えた「一定のバリアフリー化住宅」に暮らす高齢者世帯は、なお4割程度にとどまります。
賃貸物件、とりわけ民間賃貸の遅れ
こうした課題は、賃貸住宅でより深刻です。65歳以上の世帯のうち借家住まいは約2割弱で、その多くが民間賃貸です。持ち家であれば、自らの判断で手すりを付けたり、段差をなくしたりできますが、賃貸ではそうはいきません。改修の可否は貸主の意向次第で、入居者の立場からは、老朽化やバリアフリーの遅れをどうすることもできないのが実態です。公営住宅やUR賃貸では、段差解消やエレベーター設置を標準化する取り組みが進められてきましたが、数で上回る民間の老朽賃貸ストックの底上げは、なかなか進みません。結果として、最も配慮が必要なはずの高齢の賃貸入居者ほど、設備の整わない住まいに暮らしがちだという「ねじれ」が生じています。新築の賃貸住宅であっても、一般にバリアフリーや高い断熱性能は義務ではなく、建設コストの削減が優先されがちである点も、遅れの一因です。
見落とされがちな「断熱」とヒートショック
ハード面の課題は、手すりや段差だけではありません。とりわけ見落とされやすいのが、住宅の断熱・温熱環境です。消費者庁によれば、令和5年に「不慮の溺死・溺水」で亡くなった65歳以上は8,270人にのぼり、そのうち浴槽での事故が6,541人と、約8割が入浴中の事故でした。これは交通事故による死者の約2倍にあたり、寒さの厳しい12月から2月に集中しています。溺死以外の死因を含めた入浴中の事故死は年間約1万9千人にのぼるとの指摘もあります。原因の多くは、暖かい部屋と寒い脱衣所・浴室との温度差による血圧の急変、いわゆる「ヒートショック」です。つまり、住まいの断熱性能や浴室暖房の有無が、高齢者の命に直結します。断熱性能の低い古い賃貸住宅ほどリスクは高く、バリアフリーと並ぶ、あるいはそれ以上に重要なハード面の論点だといえます。世界保健機関(WHO)は冬季の室内温度を18度以上に保つよう勧告していますが、日本の住宅、とりわけ賃貸の断熱性能は、この水準に届かないものが少なくありません。
専用住宅のハード基準と、一般ストックの底上げ
高齢者向けに設計された住宅では、一定の水準が確保されています。サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)では、各住戸の床面積を原則25平方メートル以上とし、段差の解消や手すりの設置といったバリアフリー構造、台所・水洗便所・洗面・浴室などの設備、そして安否に応じて通報できる緊急通報装置の設置が、登録基準として求められています。住宅確保要配慮者向けの登録住宅(セーフティネット住宅)にも、一定の構造・設備の基準があります。ただし、こうした専用住宅の戸数は限られており、多くの高齢者は一般の賃貸住宅に暮らし続けます。したがって、新築の専用住宅を増やすだけでなく、既存の賃貸ストックをいかに改修し、底上げしていくかが、より大きな課題となります。
これからの課題
以上を整理すると、高齢者用賃貸住宅のハード面の課題は、「手すりへの偏り」「賃貸ストックの遅れ」「断熱・温熱環境の軽視」の三点に集約されます。改正住宅セーフティネット法による改修費の補助や、国のスマートウェルネス住宅等推進事業といった支援を活用し、バリアフリーと断熱を一体で進める改修を後押しすることが求められます。高齢者を受け入れる住宅を「数」だけでなく「質」で捉え直す視点が、これからの賃貸経営には欠かせません。見守りなどのソフト面と、住まいの質というハード面──この両輪がそろって初めて、高齢者が本当に安心して暮らせる賃貸住宅が実現するのだと考えます。

